ソロタイム日記

ソロタイムという語源は、尊敬する名越康文先生の著作から引用しています。

ここで今一度、SNS疲れについて考えてみる。

 

私は不定期にSNS疲れを起こし、急にSNSから離れて、しばらくしたらまた帰ってきて、そしてまた不定期に離れて、というのを繰り返している。

 

題名の通り、今回は自分とSNS疲れについて今一度冷静に分析してみようとしていたら、Evernoteに去年の10月頃、そのまんま似たような備忘録を書いていて、ずっと同じ事で悩んでるじゃないかと苦笑いしてしまった。
せっかくなので引用しつつ、本当に似たような内容ではあるのだけど、今回の分析も含めて書いてみようと思う。

 

 

SNSの交流ができなくなってしまったのに、それを他人に求める自分が居た。

今までやっていたSNSに対して、繋がっているフォロワーは、もうほとんどが長い付き合いになるフォロワーで、素性もほとんど知れているような間柄なので、遠慮がほとんど無くなっていた。
そして、自分の中でその度が越えてしまい、自分はTwitterに対して、フォロワーに対して様々な境界を見失っていた。
人のふり見て我がふり直せというように、フォロワーに依存しないように、執着しないように気をつけていたつもりだったのに、気が付けばそれをやってしまっていた。

 

仕事が忙しくなればチラチラしながらその旨を匂わせて書いて、可哀想な自分を見てほしい・知って欲しいと、同情を誘おうとしていた。

フォロワーに対して「見てるんでしょ!?疲弊してる可哀想な私を見て!!!」という気持ちを増幅させてしまっていた。

察してと言わんばかりに、フォロワーには優しい言葉を求める癖に、自分はそれをしない。多分言った所で、それは「私も慰めて!!」という、下心のあるものになってしまうと思う。

 

タイムラインを眺めるだけでも、誰かが楽しそうにしているのを見ていると憂鬱な気分になっていた。

一部のフォロワーが、自分が入り込めないある話題で盛り上がっていれば(心の中で)拗ねるし、通知という反応が欲しいだけの、「あなたこれ好きだったよね!?」という構ってちゃんなRTが増えていた。

特定の人たちが楽しそうにしているなら「それって何ですか?面白そう!」と声をかければ良いのに、興味が湧かないし、そんな状態で聞いた所で、失礼になるだけだ。

 

どちらにしても自分にとっても相手にとっても何一つ良い事が無いので、さっさと離れるに限る。

 

自分も“何者か”にならなければ、という焦りに駆られて、それで消耗してしまっていた。

これは新たな気付きだけれど、漫画の原稿をしたり、趣味を楽しんでいる呟きを見ていると、自分も“何者か”にならなければ、という焦りに駆られて、それで消耗してしまっていた。
多分、これを言ったら「そんな事は無い。あなたは生きているだけで偉いんだ。焦らなくても良いんだよ。」と言われるだろうし、もし誰かが同じ理由で悩んでいると言われたら、私だってそう言うと思う。
多分、自意識というか、プライドが高いんだろうと思う。やらない癖に、やらない自分が許せないのだ。
でも、日々の生活や仕事に疲れてできない。だから、まずはSNSから離れて回復しようと思った。

 

SNSを覗く事もあるけど、その頻度ももう少ししたら少なくなるんじゃないかと思う。

……というように、ダラダラつらつらと書いてきたけど、こんな感じの理由でまたSNSをやめた。というより、交流用アカウントから離れた。
ワンちゃんのアカウントや情報系のアカウントしかフォローしてないフォロワー0人の閲覧用アカウントはたまに覗いているけど、その頻度ももう少ししたら少なくなるんじゃないかと思う。

 

というのも、ここのブログと、映画感想用のブログを作ったからだ。


文章を組み立てるのは、エネルギーが要る。でも、書く事は楽しい。
日常の文章も、映画の感想も、どんな風に書こう?と考え始めると、惰性でタイムラインを眺めている時間がとても勿体無く思えてきた。
多分これは良い事だ。問題は、これがいつまで続くかという所だけれど。

SNSの中毒性に引きずり込まれないように、関心のあるものや趣味を増やして、自分の意識を分散させていくつもり。
そうしてる内に、自分の中に溜まっている毒気が抜けたら良いなと思う。

 

最後におすすめの記事を紹介

そもそも、私がSNSから離れようと思ったのは、ざざいずみさんという方の、『10年間続けたSNSを全部やめたら幸せになった話』を見つけて、深く共感したからだったので、最後に紹介しておきたい。

 

www.zazaizumi.com

私は意志が弱くて、度々SNSに戻ってしまっていたけれど、とても背中を押される記事なので、是非ともおすすめしたい。